パンツは履いておけ。

いろいろはみだしてる人の人生備忘録

傷口から人生

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先日、「傷口から人生」の小野美由紀先生が主催するワークショップに参加し、「書き手としての要素が全てが揃っている」などと評された私は、調子に乗って小躍りで帰路についた。

参宮橋の、都心な割にレトロな駅のホームで、来る新宿行きの列車を待つ。小野先生の声を心の中で反芻するうちに、すっかりと日が暮れて、私の短い影が夏の夕闇にじわじわと飲み込まれていった。

 

◇◇◇

 

新しく書いている小説の首尾も上々。 こうしてブログやらにエッセイを吐き出す余裕があるほど、毎日、頭の隅から書くことがぼろぼろと零れてくる。

これも全て、今までの人生のおかげなのかもしれないと思った。

私は、色々な人から人生を否定されて生きてきた。親からも、学校の先生からも、とにかくありとあらゆる大人から、お前のやっていることは、ナンセンスだとボコボコに殴られ続けてきた。「フツウ」に学校に通うのが正義で、それが出来ないお前には、モノをいう資格がないというのに近い言葉さえ言われていた。

しかし、今、私はそのナンセンスな行為を見事に作品に昇華している。「フツウ」に学校なんか通わなかったけど、めっちゃモノを言ってるし。その資格が私にはあると思ってくれている人もたくさんいるし。どうだ、ざまあみろ。

 

この世に、というか、人生において、無駄なことなど一つもないんだ。受験に落ちたり、恋人と別れたり、就活に失敗したりしても――もっと際どい例を挙げると、飲み会ではしゃぎ過ぎて大勢の前でゲロ吐いたり、好きな人の前でブーと盛大なオナラしたり、ホストに貢いで破産したり、DV夫と共依存になって数十年ドロドロの時間を過ごしたり、誰かを殺してつい昨日まで獄中にいたとしても、それをナンセンスだと笑ったり、軽蔑したりする他者こそいれども、その体験は、まぎれもない自分の人生の一部なのだ。

 

人生での経験は、どんなに些細な出来事であっても、何一つ余すことなく、血や肉となって私たちの中に生きている。それをナンセンスと呼ぶかどうかは自分次第なのだ。だから、少なくとも、他人がいっちょまえに、人の血肉をムダと指図するのはおかしなことなのではないだろうか。

こういうようなことを言うと、「自己肯定も甚だしい!自分に厳しく生きろ!」と一喝してくる怖~い人間もいるのだが(個人的にはそういう体育会気質な輩は時代錯誤だと思っている)、そもそも、自分で自分の存在を肯定しなければ、誰が一体「私」を守るというのだろうか? 最後に自分を守ってくれるのは、いつだって自分自身だ。

 

こういう生き方をしてきた私だから、人生に無駄なことなど一つもないと、胸を張って言いたい。

むしろ、ナンセンスな行為――人はそれを「傷」と呼ぶのだが、それをしていくほどに、私の人生が広がっていく気がする。最近はもう、それが快感でたまらない。私のキャリアが「フツウ」からかけ離れていけばいくほど、「人生の傷口」が広がっていき、私の視界も開けていく。絶対、これを作品に、研究に昇華してやるぞって、背筋がぞくぞくするのだ。 

 

だから私は、明日からも傷口から人生を垂れ流して、生きていく。