パンツは履いておけ。

いろいろはみだしてる人の人生備忘録

血は水よりも濃くなんかない

スマホを壊した。池袋駅の構内で、乗り換え案内のアプリを開こうとしたら、手をつるりと滑らせた。真っ逆さまにコンクリートの通路に伏せた液晶画面は、あっけなく割れた。粉々になったスマホを見つめる私に、通りすがりの人々が「あーあ」という同情の視線をくべて去って行くのを、ちくちく肌で感じた。せめて、「やっちゃいましたねぇ」とか、誰か一人でも明るく口に出してくれたら、まだ、私も、救われたのに。他人の不幸をばっちり目撃しておきながら、私が睨み返すと、みんな目を逸らす。社会の、というか、世界の、こういうところが嫌い。


翌日、すぐにケータイショップに足を運んだ。店員曰く、私が使っていたスマホは既に生産が終了しているため、もはや修理に出すよりも新しい機種に乗り換える方が安いということだった。特にスマホにこだわりがあるわけでもないので、店員の助言に従うことにしたのだが、情けないことに、成人していながらも私のスマホの契約者は母親になっていた。そのため、母がいないとその場で新しいスマホに乗り換えることができず、私は、休職中の母親を、電話で呼び出すことにした。その前日にラインで喧嘩をしたばかりだったので、やや気まずかったが、母親は「仕方がない」と応じてくれた。


四半刻後、杖をついて店に現れた母親は、しばらく見ないうちに、また背中の肉が薄くなっていた。肩甲骨が隆々と盛り上がり、母の身体のうちの殆どが骨だけになってしまっているんじゃないかと一瞬たじろいだ。

——筋ジストロフィー。それが母親の病名だった。

 

 

◇◇◇

 

 

社会学者、フェミニストとして有名な上野千鶴子さんが、母親が元気なうちに格闘しなさい、と著書で発言していたのを思い出した。


私は小学校高学年ぐらいのときから、ずっと母親と格闘してきた。中学受験に必死な母親と温度差があったことも原因ではあるが、それ以上に母親の趣味への口出しが決定的であった。学校でいじめに遭い、不登校児となっていた私が唯一の心の拠り所としていたのが、漫画とアニメである。だが、それを母親は快く思っておらず、「いかがわしい」「受験の邪魔」と常に否定的であった。私が買ってきた漫画雑誌を検閲し、勝手に捨ててしまうことも少なくなかった。


母親がここまでの教育ママになった原因は、夫——つまり、私の父親の存在であった。父親は酒癖が悪く、家庭内暴力を頻繁にするいわゆる「DV夫」である。いちおう自営業を営んでいるが、収入は母の方が圧倒的に上だった。
「学歴の低い人間はああなるのよ、皆はちゃんと大学まで出なさい」


母親は毎日のように、父親の低学歴と暴力を結び付けて、私たち三人の子どもに言い聞かせていた。そんなに学歴が大事って言うなら、なんで大卒の人と結婚しなかったのさ、と何の気もなしに訊いたことがあったが、それを口に出したが最後、母は途端に血相を変えてヒステリーを起こした。「私は騙されて結婚したの!」と喚き散らし、過呼吸になるまでオンオンと泣く母親の姿は余りにも衝撃的で、何年経っても忘れることができない。ちなみに、私が成人した今でもこの質問は禁忌となっているため、私は未だに両親が結婚に至った経緯を知らない。こんなに憎み合っているのに、なんでこの人たちは結婚したんだろうと、ずっと不思議に思って育ってきた。


このようにして、訳も分からず、いつも椅子や食器や誰かしらの怒号が飛び交う家庭。そんな状況に追い詰められた私は、中学三年生で人生早々にリタイアを図った。自室のドアノブに紐を括り、首を吊ろうと思った。だが、既の所で自殺未遂に失敗し、兄と同い年の双子の弟から「これ以上家の中をごたごたさせるな」と批難を浴びた。この頃の記憶はとても断片的なのだが、ある日、学校から帰ってきてすぐ、セーラー服のまま包丁を持って暴れているところを、男兄弟二人に取り押さえられ、警察が来たのは覚えている。


それから、郊外の小児向け精神科病棟にしばらく入院した。退院ののち、父親がいる家にはもどらずに、母親は、私だけを連れて、市外のマンションに引っ越した。半ば夜逃げ的な感じである。本当は、母親はきょうだい全員を連れて家を出たかったらしいが、経済的に一人に絞らざるを得ず、一番ケアが必要だと考えた私を、選んだ。ちょうど、高校に上がるときであった。


私は私立の中高一貫校をやめ、鬱状態でも試験に受かるような易し目の都立高校に進学することになった。しかし、私立にいたときの勝手と違い過ぎて、結局また鬱が再発した。一ヶ月と通わずに高校を退学し、そこからまた数年、何度も精神科病棟にお世話になった。「育成失敗」。当時の母親はそんな言葉が脳裏をよぎったことだろう。


世間体と私の将来を案じる母。口癖は「これまでいくら学費かけてきたと思っているの」。対して、現実世界でささくれた心を癒すため、今は休みたいと思っていた私。ゲームとネットが逃避場所。将来的に大学に行きたいとは考えていたが、心のエンジンが切れたので、数年とはいはないが、一年間はそっとしておいてほしいと考えていた。口癖は「もう疲れたの、少し休ませてよ」。


私たちは都内の狭い1LDKのマンションの中で、文字通り何度も殺し合って、何度も警察のお世話になった。

 

◇◇◇

 

私は現在、埼玉県の郊外で夫と暮らしている。母親との同居から脱却した後も、心身の病気、社会と適合しない自分に悩みを抱え、同年代よりも遅れて大学に入った。今年の四月でようやく三年次に進級したところである。一方で母親は病気が進行し、仕事を休職中である。現在は銀行員になった弟と、かつて私といたマンションで暮らしている。
私と夫は、今まで六年間付き合ってきたが、殺し合いどころか、口喧嘩さえしたことがない。かといって、お互い何か言いたいことを我慢しているわけでもない。たぶん、人間的に「合っている」のだと思う。


それを考えると、母親とは人間的に「合わなかった」のかもしれない。大学で社会学を専攻し、家族社会学に触れた。その中で、つい最近「毒親」という言葉と出会い、遅ればせながら、そういう本やエッセイ漫画が多く出されていることを知った。そして、やっと、世の中の多くの人が、親との関係に悩んでいるのだという事実を知ることが出来た。血のつながりがあっても、ソリが合わない親子はザラにいるのだと安堵した。


男と女、女と女の違いもあるかもしれないが、私は、夫とのほうが、良好な関係を築けている。ここまで書いてしまうと、まるで「母親大っ嫌い!だから子どもの間は辛かったのグスン…。でも今はフィアンセがいるから幸せになったわぁ~!キャハ☆」と言っている、結婚に逃げた最低女に見えるかもしれないが、そういうことではない。というか、仮に私が結婚に逃げたということにしても、私は、母の娘であることには永遠に変わりないのだ。結婚相手は、婚姻関係を解消すれば他人に戻れるけど、親とは勘当しようとなんだろうと、けっきょく生物学的には親子だし、引き寄せ合うふたつの磁石みたいに、どうやったって離れることは出来ない。


要するに、私の苦しみは、永遠に母親の娘であり続けることだ。母親が元気だったうちは、先述のようにギャンギャン格闘してきた。互いに、生涯忘れられないぐらい酷いことを言い、酷い仕打ちをした。しかし、今、私の目の前にいる母親は、病魔に侵されながら老いている真っ最中で、もう戦えない。かれこれ十数年拗らせてきた怒りを再燃させ、今ここで戦おうものなら、母親は私に気圧されて、ぽっくり死んでしまいそうで、怖い。
 しかし、頭ではそう分かっていても、会うとまた、私は母親の一挙手一投足にイライラしてしまうのだ。母娘関係とは難儀なものである。思ったことを全部言うとまた喧嘩になるので、地雷を踏まぬように控えめに少しだけ物申すが、やはり、それでも私は、うっかり母親の逆鱗に触れてしまう。


「私のせいなんでしょ!全部お母さんのせいにして!私が死ねばいいんでしょ!」

最近、母は怒るとすぐにこのような言葉を吐いて、泣き始めるようになった。私に言い返す暇も与えず、まるで玩具を買ってもらえない子どもみたいに、わんわん喚く。こうなるともう、話は通じない。だが、私だって人間だ。我慢にも限界がある。すぐにヒステリーを起こす母親の鳩尾に、一発パンチを入れてやろうと拳を握りしめたこともあった。しかし、その時に少しでも母親の浮き出た鎖骨が視界に入ると、もう、全身の力が抜けて、やり返せないのだ。「親が元気なうちに格闘しなさい」——上野先生の言葉は、真理であった。そして、あれほど格闘してきたにも関わらず、まだ、闘い足りないと感じるあたり、私と母は本当に「合っていない」のだろう。

 

◇◇◇

 


母親と物理的距離を置くようになってから数年経つが、私と母親は未だに喧嘩をする。もう大人だし、離れて住んでいるのだから、互いに放っておけばいい。それなのに、私は何かあるたびに、つい母へのホウ・レン・ソウを欠かさずしてしまう。そして、案の定喧嘩して、関係が常にこじれ続けていく。

私が何気なく母親に連絡をしてしまうのは、心のどこかでまだ、母親に認めてもらいたいという承認欲求があるからなのだろう。幼少期から思春期頃まで、喉から手が出るほど欲しかったそれは、やっぱり現在も手に入らなくて、今も私は欲求不満でからからに干からびている。だから、喧嘩すると分かっていても、ひょっとしたら、今度こそ母親が私を認めてくれる、賛同してくれる。そんな淡い期待を抱いて、自身の退屈な日常や些細な功績を誇大に伝え、今日も私は玉砕するのだ。


そんな日々を繰り返していたこの頃、昔お世話になっていた心療内科の先生に言われたことを思い出した。

「人間って、いがみ合っている人と、なぜかお互いにどんどん近づいて行っちゃうっていう心理があってね」

確かに、互いのアラを探したり、反撃の機会を伺うためだったり、私たち人間は嫌いな相手の行動こそ、ついよく見てしまう。そして、相手の些細な発言にさえ、過剰に反応してしまう。つまり、私たち親子は、怒れば怒るほど鼻息荒く、互いの距離をじりじりと詰めていってたのだ。


「このときの対処法は、距離を取ってクールダウンするしかないよ。物理的な距離もそうだけど、心の距離も。お互いが冷静になるまで、待ちましょう」


医者のそのようなアドバイスを思い出し、考えを煮詰めた結果、もう母親とは連絡を密にしない方が、互いのためなのではないかという結論に至った。それは他人から見ると、とても寂しくて歪な親子関係だろう。しかし、例え他人からみて奇妙でも、当事者である私たちが幸せにやれるなら、その方がいいに決まっている。


母親はいつも、自分の家庭が他人からどう見えるかを気にしていた。子どもを三人とも中学受験させ、私立の中高一貫校にいれたことを誇りにして生きてきた。仕事をバリバリこなしつつ、わたしたちの学校の保護者会やその後の茶話会にも出席して、他の母親たちに「キラキラ家庭」をアピールすることを欠かさなかった。だが、一方で、家庭は少しずつほころびを見せ始め、最終的に、病んだ娘という私に全てをぶち壊されて、一家は離散した。
このような過去があるからこそ、体裁など取り繕っている場合ではないと、私は思うのだ。


◇◇◇

 

ケータイショップを出た私たちは、近くのデパートにあるATMコーナーに立ち寄った。私はそこで現金を下ろし、スマホの諸手続き代金二万円を母親に渡した。
母親は、自分の父親(つまり、私の祖父)の命日に実家に贈るものをデパートで選んでいく、と言った。「一緒に来て」とこそ言わなかったが、少し、ついて来てほしそうな視線を私に向けた。しかし、私は、「この後寄る所があるから、ごめん」と、すぐにその場を離れた。
寂しかったのかもしれない。でも、また言い合いになる方が辛いから、私は後ろ髪を引かれる思いで母親の視線を振り切って、駅に走った。足の悪い母親は、私を追いかけることも出来ずその場に取り残された。彼女は、いったいどんな気持ちで人ごみに消えていく私を見送ったのだろうか。
もし、母親が次の日に死んでしまっていたら、きっと私は、その日を一生後悔していたと思う。そんな気分だった。

春の日差しは、思っていたよりも暖かい。この季節になると、遠い昔に、母親と手をつなぎながら、近所の公園を散歩したことを思い出す。シロツメクサの咲く公園だった。あの時の私は、まだ、受験も、将来のことも、何も考えなくて良いぐらい幼かった。無我夢中に花を摘んで、冠を作っては、母にプレゼントしていた。シロツメクサの花冠を嬉しそうに頭に載せる母は、私たち三人の子どもを、暴力を振るう父親から、必死に守っていた。夜泣きがうるさいと、夫に髪の毛を掴まれて、畳のへりに額を叩きつけられようと、丸めた競馬雑誌で殴られようと、私たちだけは立派に育て上げるという決意を揺らがせなかった。そうやって年を重ねてきた母を突き放そうとしている私は、とても親不孝だ。


血は水よりも濃いなんて、一体誰が言ったんだろう。その言葉のせいで、狂気的なまでに、血のつながりに苦しめられている人が、この世にはたくさん溢れている。

 

 

過去にnoteに掲載したものです