パンツは履いておけ。

いろいろはみだしてる人の人生備忘録

SNSの「しあわせ病」から脱却した話

SNSに生きている人は、こじゃれたカフェで美味しいものを食べたり、少し遠出して美しい風景を見たりしたって、それだけでは幸せにはなれない。食べたもの、見たものを写真にばっちりと写し、スマホの鋭利な加工フィルターを通して「私、今幸せしてますよ~」と世界に発信しないと、もはや幸福を感じられなくなったのだ。

これを、「しあわせ病」と命名したのが、ネットライターのセブ山氏である。著書の『インターネット文化人類学』を遅ればせながら拝読したが、この本は、要するに「あ~、ネットでこういう人いるいる」みたいなのに直撃し、その生態を分析したという書籍である。口語調で書かれた対談形式の文章が非常に面白く、ここ3~4ヶ月でもう数回熟読している。

 

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かくいう私も、つい最近まで「しあわせ病」の患者であった。Twitter,Facebook,Instagram。さまざまなSNSを駆使して、周囲に「充実してます!頑張ってます!」というアピールを常に欠かさなかった。

何かいいことがあったら、Twitterでルンルン♡と大げさに誇張して報告。何かで賞を獲ったら、Facebookで「〇〇さんに感謝!これからも頑張ります☆」など、ぎらぎらしているわりに薄っぺらい、アルミホイルみたいな言葉で武装して、私という人間を三割増しに見せる作業。そして、何かオシャレなお店に入れば、「インスタ映え」するフードを注文して、食べる前に写真撮影。フィルターを通しすぎて原型が分からなくなるほどグロテスクになった食べ物の写真をInstagramにアップロードし、「良い生活送ってるゾ♡」アピールは完了。

 

何が私をこうさせたかというと、それは紛れもなく、幼い頃、貧しさによって味わった屈辱のせいであった。

父親のアル中が酷く働いていなかった時期があり、母親曰く、当時住んでいた市の役所の人間に「こんなんでよく生活出来てますね」と言われたほど、我が家の通帳には悲惨な額が刻まれていたらしい。

それでも子ども三人を擁する我が家が辛うじて食べていけていたのは、母親が医療職でガツガツ稼いでいたからだったが、彼女は超がつく教育ママであった。結果、我が家の予算は塾や習い事の教育費に全振りされて、私の洋服は近所のお姉さんの色褪せたお下がり。「清貧」と言い張り、毎食のオカズは基本茶色でささやか。は?旅行?何それ?美味しいの?

こんな感じであったため、学校ではイケてる女の子たちに小馬鹿にされ、幼少期は辛酸をべろべろ舐めて生きてきた。この経験が今の私の人格を形成する礎になったと言っても過言ではない。

今の私は、負けず嫌いで、プライドエベレスト。

こうして、SNS自己顕示欲モンスターが爆誕した。「幼少期にこの私を馬鹿にした連中、見てるかーー!!?今なぁ、あんたらより上の生活送ってるんじゃボケーーー!!」と言わんばかりに、毎日世界中に「ワタクシ、あなたたちとは違う人間ですの」と発信(マウンティング)して、憂さを晴らしていたのだ。

 

 

では、私が、なぜこのSNS生活を辞めたかというと、

ぶっちゃけ、疲れたから。
その一言に尽きる。

 

SNSに書くための「いいこと」だって、そんなん毎日起きるわけねぇし、文筆での賞だって、そんな大したもん獲ってるわけじゃねえ!!!オシャレなカフェ???んなもん毎日行ってたら破産するわ!!!陶芸家のなんとかさんが作った皿にちまっとしたキラキラスイーツよりも、松屋でプラスチックの茶碗に盛られた茶色の丼をどどーんと食ってる方が、腹は満たされて幸せじゃボケ!!!!!

 

 

……そして、何より、自分を大きく見せるために頑張っている己のダサさに気が付いてしまったのだ。人に見せるためのフォトジェニックな幸せをせっせと作り上げる行為の虚しさが、私に自己嫌悪をもたらしたのだった。

 

 

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三月。TwitterFacebookInstagramのアカウントを全部削除して、小旅行に出かけた。一昨年にも同じ時期に訪れたことのある、秩父方面の温泉宿に泊まった。客室についていた露天風呂を、夫と楽しむ。そこから見える、蕾を膨らませた桜の木と、火照った頬を撫でていくそよ風、鶯の鳴き声が、私たちの胸に春の予感を充満させた。

風呂から上がり、二人で浴衣姿のまま宿の裏を流れる川を見に行った。以前スマホの画面越しに見た景色よりも、自分の目で、じっくりと見る風景の方が美しくて、心と足が、軽くなったのを感じた。

 

それは、SNSをやっていると自動的に入ってくる余計な情報の海に晒されずに済むようになったこともあると思う。だが、それ以上に、「キラキラアピール」をしないといけないという強迫観念から解放されたことが、私の精神衛生を良くしたのだ。

 

ひょっとして、誰かに見せびらかすための幸せよりも、世界中の誰もが知らないところで、ひっそりと幸福な気持ちになっていることのほうが、「しあわせ」なのではないだろうか。